妙遠寺境内には二ヶ領(稲毛・川崎)用水を完成させ、部落民の定着も図った、小泉次大夫と川崎中興の祖といわれた田中休愚の、偉業を讃える「泉田二君功徳碑」・日純上人の供養塔・小泉次大夫夫婦の逆修塔・石川駿河守吉久夫婦のお墓があります。小泉次大夫(こいずみじだゆう、天文 8(1539)年 – 元和 9(1623)年)は戦国時代から江戸時代初期の代官および用水奉行。 駿河国富士郡小泉郷(現在の静岡県富士宮市小泉付近)にて今川義元家臣・植松泰清の長男・吉次として出生。もともと植松家は樋とい代官(用水奉行)を務めていた。 天正18年(1590年)、小泉次大夫は多摩川から農業用水を引く用水路敷設を進言して徳川家康により採用され、以降稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)に移り住み用水奉行を務める。
慶長 2年(1597年)、二ヶ領用水、六郷用水(東京都駒江市、東京都世田谷区、東京都大田区の農業用水)の建設に着手。 慶長16年(1611年)、二ヶ領用水、六郷用水が完成。これら2つの堀は「四ヶ領用水」「次大夫堀」(じだゆうぼり)「女堀」とも呼ばれた。「女堀」と呼ばれたのは、小泉 次大夫が用水の掘削をする際に、農業生産を落とさないために、農業生産の主力であった長男以外の、次男、三男、女子を3ヶ月交代で登用して、円滑に建設を行ったことに由来する。元和 5年(1619年)、川崎領砂子(現在の川崎市川崎区砂子)の妙遠寺にて隠居する。 元和 9年(1623年)没、享年85。なお、小泉次大夫が、二ヶ領用水と六郷用水を検地している図は、太田区立郷土博物館に保管、展示されています。